「教えてくださってありがとうございました」のブログを読んで思うこと

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こちらのブログね。

話に出てくる、頓珍漢な主張をする学生に違和感を感じる人は多いだろう。一方で、「いやこれでいいだろう、だって主張はロジカルで正しいから」という人もいるだろう。元々このような主張をする人たちも、普通にいる。そして、「個人個人が好きに主張することで世の中は発展する」といってこういう主張を助長するような人もいる。「最初にちゃんと説明しなかったのがいけない」と言う人間もいそうだ。

 

色々な意見が世の中に存在する、ということ自体は否定しない。でもやっぱり、これはあかんと思うんだよな。

 

で、僕が問題に感じているのは、この学生の態度自体、ではない。まあ、子どもだからね。
 

ただ自分の子供だったらこんこんと言って聞かせるけど(笑)。

 

そうではなくて、この学生のスタンスが間違っていない、と思う社会の風潮があるとしたら、その部分に問題意識を感じるわけだ。大人は子どもに対して、「社会の常識」に基づいて、「ならぬことはならん」と断じるのも仕事だと思う。こういう「自分勝手な主張」をし続けることに対して、社会は、社会が持つ倫理感に照らし合わせて、しっかりとNoをつきつけなければいけない、ということだ。

 

「常識」という言葉を敢えて使っているんだけど。この先生が言っていることは、極めて常識的な言葉だってことはわかると思う。

 

昨今、「常識」って言葉が、旧時代の考え方で、新しい価値を生み出す際にぶち壊すべきものって空気があるかもしれず、確かにそういう「常識」もあるかもしれないが、守るべき「常識」ってものもある。

 

「正論や常識で縛ると天才が生まれなくなる」「もっと自由に言いたいこと言っていけばいいのである。なんでみんな遠慮するんだ」とかね、そういう主張を目にすることは多い。実際、世の中の仕組みを変える天才は、スティーブ・ジョブズしかり、イーロン・マスクしかり、「普通の人」ではないようだし、自分がやりたいこと以外のことには、無思慮だったりするようだ。そうやって、常識的には考えられない、色々な発明やイノベーションが生まれた。
 

 

ただ、「常識」は全て忌み嫌われることで、ぶち壊せばいいのか、というと、そうではないと思うんだな。「これは正しい、これは正しくない、という道理」である「倫理観」は、ベースの部分は、「社会とのつながりの中で、自分の倫理観を捉え、アジャストさせる」というスタンスが大事だ。それが「常識」となっているんだと思う。

 

そうやって、自分でアジャストさせつつ、社会への働きかけも行いつつ「社会としての倫理観」をみんなで作り上げ、みんなでその「常識」を守っていこうとする、そして時代とともに、みんなで少しづつ変化をさせていく。そんなスタンスが必要なんだと思うのだ。

 

価値観は「みんな違ってみんないい」ことだと思うが、倫理観は、「社会の常識とのリンク」は必要、ということ。みんなで生きる社会だから。その常識に照らし合わせて、「ならぬものはならぬ」ということを、びしっと断じる。こういう姿勢をみんなで持つ必要があるのではないか。

 

また、この「常識」は、「自分のムラ」の常識が、社会全体の常識と比べておかしなことになっていないか、ということは常に考えていなければならないと思う。「いいのだ、人からパクっても、いい加減なことをやっても。人が来れば。儲けたもの勝ち」的なところが「ムラの常識」としてあったとしても、社会の常識からしてアウトだったら、それはアウト。「これでいいのか?社会全体の常識にてらして」ということは、常にチェックが必要だ。

 

「常識」は、法律で決められている、とか、明文化されている、といったものでもないから、常識をたてに「ならぬものはならん」と言うのは結構面倒くさい。異論もある。でもやっぱり、常識を形成している多くの人は、社会の常識に照らし合わせて、「ならぬものはならん」ということを、みんなで強く思い、言っていかねばいけないんではないかな、と思っている。

 

人は自分一人で生きているわけではない。だから当然、社会とのつながりを考えようね、ってとても簡単なこと。
 
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